制作年

平成3年(1991) F100号 1305×1623 紙本着彩 額装

2017年高畑郁子氏より寄贈  閲覧室展示

作品について

1964(昭和39)年3月の父親との死別が引き金となり、生の痕跡を残そうと拓本と砂絵を混合したような〈人拓〉の手法を生み出す。これは、糊を付けた身体を和紙に押し当てて顔料を付着させるという独特の表現形式で、以後この「人拓」に迫真的な写実描写を融合させた緊張感ある作品を発表し、様々なヴァリエーションを生み出した。「人拓画」は星野画伯にとって画期的なものとなった。

本作品も、「人拓画」のひとつで、「U君の碧いフーガ」(豊橋美術博物館蔵)、「U君による赤い習作」(碧南市藤井達吉現代美術館蔵)と連作になっている。当時、画塾に通う子どもに協力を得て「人拓」を取って制作したと伝わる。星野画伯は、クラシック音楽を愛し、作品のタイトルに時々音楽用語を採用した。本作の「セレナーデ」は、小夜曲、夜曲。夕べに恋人の窓辺などで歌い、または奏でられた愛の歌。

出展:第17回人人展(東京都美術館 1991)、創立120周年記念美術展(2022.5.24~29)於:豊橋市美術博物館出品。

作者について

星野 眞吾(ほしの しんご) 二中12回(昭和17年3月卒)大正12年(1923)~平成9年(1997)

豊橋市魚町に生まれ、豊川市牛久保町で育った。昭和期から平成期にかけて活動した日本画家、妻は画家の高畑郁子で高女44回(創画会会員)。二中在学中から水彩画・油彩画を描く。またこの頃中村正義と出会う。1944年京都市絵画専門学校図案科、48年同日本画科卒、同窓生11人と「グループ・パンリアル」(翌年「パンリアル美術協会」に改称)の設立に参画、自らの作品を「膠彩画(こうさいが)」と称し伝統主義的・形式主義的な従来の日本画と一線を画し、厚紙や和紙のコラージュによる抽象画などの実験的作品を制作した。60年代半ば頃から作風に大きな変化が現れ、和紙の上に自らの身体を投影する「人拓」という手法を多用する。77年パンリアル美術協会脱退、前後して中村正義らと「人人会」結成、精緻な写実的描写などを駆使し、異世界の構築を試みるなど、日本画の革新を目指して活動した。91年フランス政府から芸術文芸シュバリエ勲章授与される。晩年には白内障や緑内障に苦しみながらも創作活動を続けた。1997年12月29日、74歳で死去。99年豊橋市により日本画の新進作家を対象とした「星野真吾賞」が制定された。(選考は3年に1度のトリエンナーレ)