令和7年8月6日(木)10時から

1945年(昭和20年)8月7日、当時日本最大級の軍需工場「豊川海軍工廠」がアメリカ軍の爆撃を受け、動員学徒として徴用されていた、豊橋東高校の前身である豊橋市立高等女学校と愛知県豊橋第二中学校の多くの生徒たちの尊い命が奪われました。第二次世界大戦をとおして学徒動員中に戦争の犠牲になった高女・二中の生徒と引率教員の数は実に97名に及びました。さらに豊橋空襲においても6名の高女・二中の生徒の尊い命が奪われたのです。
豊橋東高校では、今年も8月6日に平和祈念碑「若葉の祈り(同じ空)」前において戦没者の御霊に哀悼の誠をささげるとともに、世界恒久平和を祈念して、生徒会の主催による『世界平和祈念式典』が行われました。
ひがし会といたしましても、決して忘れてはならない痛恨の歴史を皆さまとともに記憶にとどめ、世界恒久平和の実現に向けた取り組みを発信してまいります。
世界平和祈念式典 次第
司会 生徒会 堤 花菜
1 開会の言葉
2 校長挨拶
3 黙 祷
4 生徒代表誓いの言葉 生徒代表 宮路 撫子
5 献花(校長・生徒代表)
6 校歌演奏(高女・二中・東)
7 閉会の言葉
8 流れ献花
生徒代表 誓いのことば
皆さん、「平和」とは何だと思いますか。高校入学前の私は、戦争がないこと、核兵器がないことなどと漠然と考えていましたが、そのどれもが決定的なものではありませんでした。
高校入学後、平和についてより深く考えることで、ある時点において一時的に戦争がないという事実は、必ずしも平和な状態を意味するわけではないと思うようになりました。今から八十年前の今日、この豊橋・豊川の地域で私たちと同じように青春を過ごしていた生徒たちが、空襲によって命を落としました。戦争、空襲、それらがなければ彼らは生き延びることができたかもしれません。彼らにとってあの瞬間の「平和」は、空襲がなければ保証されていたかもしれません。しかし、一つの戦争が終わり大きな犠牲が出たとしても、世界では未だに戦争が行われ、新しい兵器も開発されています。世界には今もなお、戦争を起こそうとする人が後を絶ちません。
「平和」というのは、ある時点における戦争の有無そのものではないと考えます。私たち一人一人の、争いがない世界であってほしいという願い、争いをなくそうという行動、争いのない状態を維持していくという強い意志、これらによって「平和」は作られます。この世界に生きる全員の不断の努力によってのみ保証されるのです。
私たちは、平和を守るべき立場にあります。戦争経験者の方々から直接話を聞くことのできる機会は減っていきます。この世界に残された、戦争経験者の話をじかに聞いてきた私たちが、戦争の悲惨さを伝えていく責務を負っています。私たちは、今日この機会に、平和を守るために何ができるのかしっかりと考えます。
最後に、戦争の犠牲となった全ての方々のご冥福をお祈りするとともに、過去の事実を後世に伝え、未来に平和を築くことを、ここに誓います。
令和七年八月六日
生徒代表 宮路撫子
平和祈念碑「若葉の祈り」(同じ空)


裏側のプレートに戦争犠牲者103名の氏名が刻まれている
山口秀太郎(東22回)制作 「若葉の祈り」(同じ空)
平成7(1995)年の終戦後50年の節目に当たる年、第二次世界大戦中軍需工場に動員され犠牲になった、豊橋市立高等女学校と豊橋第二中学校の生徒たちを慰霊し、平和祈念碑「若葉の祈り(同じ空)」がひがし会の事業として諸先輩方の支援を得て建立されました。
当初、この平和祈念碑は旧同窓会館の庭(図書館北側)に設置されましたが、本館棟改築(平成12~13年度)にともない、現在の場所(中庭中央)に移されました。
中島飛行機製作所殉難 昭和19年12月7日
昭和19(1944)年4月13日、高女第3学年生徒は、当時東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった中島飛行機製作所の熱田工場に勤労動員されました。その内の38名が、同年6月に半田製作所山方工場へ転駐し、板金・製鋼・計器測定の仕事に当たりました。その勤労ぶりは極めて優秀で、製品の仕上がり・完成の合否判定一切を任されました。
昭和19年12月7日、巨大な「東南海地震」の襲来は水田埋め立て地である工場敷地の地割れを誘い、レンガの外壁は全て崩壊、瞬時にして高女生23名が不帰の客となりました。
「校史ひがし(豊橋東高校九十年史)」には『山方工場は増産第一主義と人命軽視・安全無視を象徴する「死の工場」であり、人災の面を強く持っていた。「東南海地震」の激震・烈震もさることながら、まさに無謀な戦争の犠牲そのものであった。』とあります。
豊橋空襲 昭和20年6月19日深夜~20日未明
豊橋市は、昭和20(1945)年6月19日深夜から20日未明にかけてB29による爆撃を受け、一夜にして市街地の90%が焼け野原となりました。人的被害は、死亡624名、重傷229名、軽傷117名、物的被害は、全焼全壊15,886棟、半焼半壊109棟に及びました。この空襲で高女生徒3名、二中生徒3名が若い命を落としました。
豊川海軍工廠大空襲 昭和20年8月7日(10時13分~約26分間)
アメリカ軍は、昭和20(1945)年8月7日、B29爆撃機124機とP51戦闘機45機によって、当時東洋最大の兵器工場といわれた豊川海軍工廠の空襲を行ない、午前10時13分から約26分の間に3,256発もの500ポンド(250kg)爆弾を投下しました。空襲は極めて凄まじいもので、通常兵器による爆撃としては史上最大級の規模であったといわれています。わずか26分の間に2,500人以上の人命が奪われ、その数倍の人々が負傷しました。死者の中には国民学校の児童や女学校生徒、女子挺身隊も含まれていました。この大空襲における豊橋高女と豊橋二中の死者は以下のとおりです。
豊橋市立高等女学校:生徒34名 卒業生(挺身隊)13名 教員1名 計48名
豊橋第二中学校 :生徒25名 教員1名 計26名
高女・二中 合計74名
「若葉の祈り」(同じ空)制作者のことば
山口 秀太郎 元豊橋東高校教諭(美術) 東22回(昭和45年3月卒)
昭和20年8月7日、豊川海軍工廠が爆撃され、勤労学徒として豊橋高女、豊橋二中では多くの学生を失いました。その他の殉難を含め97名の方が亡くなっております。それから50年、いろいろな思いをもって過ごされた方々の世界平和への祈りと、少年少女といわれる過去から現在、未来へと続く若者の純粋な心根と、平和でなくては恒久な幸福はありえないということを祈念して制作しました。
制作上のフォルムは、過去から現在に至るまで此の地が青春のキャンパスであることをイメージして「若葉」を主人公として制作しました。当時、戦時下でなければ美しい空があったと記されています。
現在、ふと見上げる「空」は美しく、心の安らぎを感じます。大きな宇宙の中にあっても「空」という空間は同じものであり、過去も現在も、そじて未来も同じものです。8個の穴を通して光と空間、時間を共有し、永遠な平和が訪れるようにと副題と して(同じ空)と併記しました。
※ 令和3(2021)年に、豊橋空における豊橋高女3名・豊橋二中3名の犠牲者名が新たに確認されたのを受けて、同年6月平和祈念碑「若葉の祈り(同じ空)」の裏面の金属プレートに新たに6名の氏名を刻み、後世に残しています。(現在:計103名)